. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 47 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。」                            詩篇103:15〜22 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .詩篇90篇には人生の短さが、「夜回りのひと時」、「川の流れ」、「移ろう草」、「人の息」、「飛び去ってゆく鳥」と、いくつものイメージで語られています。このダビデの詩篇では「野の花」のイメージで語られています。

. . しかし主は、そのようなはかない者にあわれみを施してくださるお方です(13節)。そして、主は、人のいのちの儚さとは対照的に「天に王座を堅く立て」ておられ、変ることがありません。それゆえ「主の恵みは、とこしえから、とこしえまで」(17節)なのです。主のあわれみ、また、慈しみは尽きることがありません。

. .この詩篇は、自分の「うちにあるすべてのもの」(1節)への賛美の招きで始まりました。そして、この詩篇は、「御使いたち」、「みことばを行う力ある勇士たち」、「主のすべての軍勢」、「主に仕える者たち」、「すべての造られたものたち」への賛美への招きへと広がっています。これらの表現は、地上の、そして、霊の世界の全存在を言い表しています。すなわち、すべての存在が主をほめたたえるようにとの招きですが、再び「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」という、自分のうちにあるものへの招きで締め括られます。主はすべて造られたものの賛美に相応しいお方です。

. .自分の「うちにあるもの」が、主に賛美を捧げるに相応しい状態に保たれていることは、どんなに幸いなことでしょうか。人が抱えている問題は、そのいのちのはかなさのみならず、そのいのちが罪にまみれていて、聖さを欠いていることにあります。賛美への招きに気づいても、素直に賛美に加われない心の深みにある罪意識・創造主である神への疎外感が問題なのです。この心の深みにある課題の解決は、新約の恵みである主イエスの十字架のみわざに待たなければなりません。

高知県・越知町の大樽の滝


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