. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 48 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「彼らは、私の愛への報いとして私をなじります。私は祈るばかりです。彼らは、善にかえて憎しみを、私に報いました。」                            詩篇109:1〜16 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .「ダビデの讃歌」とのみあって、表題は歌われた情況については語っていません。しかし、ここに歌われている内容は、イスラエルの王サウルが、ダビデのいのちを追い求めていた頃の状況に合致すように思います。

. .彼らは「邪悪な口と、欺きの口を、私に向けて開き」(1節)、「ゆえなく私と戦いました。」(3節)、彼らは「私の愛への報いとして私をなじります」(4節)、「私の愛にかえて憎しみを、私に報いました」(5節)、「心ひしがれた者を追いつめ、殺そうとし」(16節)、「彼はまたのろうことを愛し」(17節)、「私をなじ」り、「私のたましいについて悪口を言」い(20節)、「死刑を宣告する」(31節)とあります。

. .こうした、サウルと彼を取り巻く連中の態度に対して、ダビデはどのように振舞ったのでしょうか。ダビデは「私の愛への報いとして」、「私の愛にかえて」(4、5節)と語り、彼の愛が変らなかったことを証ししています。また、彼らの理不尽な態度は「善にかえて」(5節)であったのです。

. .ダビデはそのような扱いを受け、心が「ひしがれ」(17節)、「悩み、そして貧しく」、彼の「うちで傷ついてい」(22節)たのでした。このような心の状態を経験することは、信仰と決して矛盾することではありません。信仰とは、こうした中で神を求めることです。

. .ダビデはこのような中にあっても、神への賛美を忘れませんでした(1節)。そして、神に祈っています。「彼がさばかれるとき、彼は罪ある者とされ、その祈りが罪となりますように」(7節)、「彼の父たちの咎が、主に覚えられ、その母の罪が消し去られませんように」(14節)「それらがいつも主の前にありますように」(15節)。そして、神が、彼らの罪をいつまでの覚え、御前にその記憶があり続けるとき、彼らの人生がどのような惨めなものになるかを描写しています(8節以下)。

高知県・越知町の大樽の滝


Copyright2004 PZH
All rights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる