. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 49 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「私は悩み、そして貧しく、私の心は、私のうちで傷ついています。私は、伸びてゆく夕陽の影のように去り行き、いなごのように振り払われます。」                            詩篇109:17〜31 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .ダビデは、主の御前できわめて正直です。自分のあるがままの姿を告白しています。「私は悩み、そして貧しく、私の心は、私のうちで傷ついています」(22節)。現代人の多くは、人前で自分を繕う習慣が身について、神の前でさえも自分を繕うことをして、ありのままの自分を曝けだすことをしません。しかし、祈りとは、自分を神の前にさらけ出して、神のあわれみを求めることです。現代人が祈ることが苦手なのは、正に、自分を曝け出すことをしないからではないでしょうか。ダビデは「私は、伸びてゆく夕陽の影のように去り行き、いなごのように振り払われます」と自分情けない姿を神に訴えます。この姿勢が祈りの根本なのです。自分の頼りなさ、惨めさを神の前に自覚することです。

. . 「わが神、主よ。私を助けてください。あなたの恵みによって、私を救ってください」(26節)。ダビデは自分の惨めな様を神に披瀝していますが、その祈りは決して自己中心的ではありません。ダビデが願っているのは神の栄光の顕現なのです。「こうして、これがあなたの手であること、主よ。あなたがそれをなされたことを彼らがしりますように」(27節)と彼は祈っています。

. .この詩篇には、幾たびとなく「恵み」と言う語が使われています。「あなたの恵みは、まことに深いのですから」(21節)、「あなたの恵みによって」(26節)。ダビデは、神の自分に対する優しい取り扱い(21節)、また、祝福(28節)が当然であるとは思っていないのです。それは「恵み」であることを深く頷いています。そこに「私は、この口をもって、大いに主に感謝します。私は多くの人の真中で、賛美します」と言う姿勢が生まれてくる理由があります。主の優しい顧み、祝福が当然のものと思えば、感謝もなく、賛美も生まれてはきませんでしょう。しかし、それが恵みであること、相応しくない者に注がれた特別な神の愛ゆえであることを自覚する時、感謝が、また、賛美があふれてくるのです。

. .この詩篇は「主は貧しい者の右に立ち、死刑を宣告する者たちから、彼を救われるからです」ということばで締め括られいます。ダビデは、自分の経験を自分のみに止めないで、すべての「貧しい者」へ普遍して、証ししているのです。

高知県・越知町の大樽の滝


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