. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 50 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「主はわが岩、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は敵から救われる。」                                       詩篇18:1〜19 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .幾とおりの表現で、ダビデは彼の神・主を描写していますでしょうか。これらの描写は、ダビデの神経験の豊かさを物語っています。ダビデは、彼の神を多面的に捉えていたのです。それに比して、私たちの祈りを考えますと「天にいます父」、「主」など、限られたことばしか使用していません。私たち神を知る知識が限られているからです。

. .表題には「主が、彼のすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、この歌のことばを主に歌った」とあります。サウル王の追及の手を逃れて、ユダヤの荒野を彷徨った長い日々が、とうとう終わりを迎えたときの作だと言うのです。どんなにか喜びに満ちていたことでしょうか。

. .ダビデは、過去を振り返って、彼がどのような状態に置かれていたかを先ず描写します。「死の綱は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた」(4節)。そのような中から、ダビデは「主を呼び求め」、そのダビデの祈りは「御耳に届いた」(6節)のです。

. .「すると、、、」と第7節の冒頭に書かれています。その後に続く節に見出されるのは、ダビデのために立ち上がり活動しておられる神の御姿の描写です。神は「お怒りになりました。」その結果、「山々の基も奮え、揺れ」(7節)、火を噴きました。火山の噴火は、神の激怒の表現として捉えられています。

. .そして「主は、天を押し曲げて下りて来られた」(9節)のです。神が如何にも活き活きと描かれています。それに比して、私たちの神の把握は、何か、遠くの神といった印象を免れません。「主は、ケルブに乗って飛び、風の翼に乗って飛びかけられた」(10節)。「主は、いと高き所から御手を伸べて私を捉え、私を大水から引き上げられた」(16節)。恰も、主の臨在を感覚で捉えているような描写です。ダビデにとっては、神はそれほど近い存在だったのです。

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高知県・越知町の大樽の滝


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