. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 51 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。」                                       詩篇18:20〜36 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .ゴリアテに向かって戦いを挑んだ時も、また、イスラエルの軍勢を率いてペリシテ人と幾たびとなく戦った時も、ダビデの力の源は神ご自身にありました。「この神こそ、私に力を帯びさせて、私の道を完全にさせる」(32節)。ダビデはその力をもって「軍勢に襲いかかり、、、、城壁を飛び越え」(29節)ました。

. .しかし、ダビデが強かったのは実際の戦いに際してだけではなかったのです。彼は「主の道を守り、、、、神に対して悪を行わな」(21節)いことにおいても、力ある者とされました。ダビデは「主のすべてのさばきを」自分の前に置き、「罪から身を守りました」(23節)。ダビデより少し前の士師の時代に活躍したサムソンは、神からの力を帯びていましたが、その生き方には道徳的に疑点が付き纏いました。しかし、ダビデは文武においても、また、倫理的な生活においても秀でた人物でした。

. .神は「私たちの罪にしたがって私たちを扱うことを」なさいません(詩篇103:10)。しかし、他方では「私の義にしたがって私に報い」(20節)るお方です。神は「恵み深い者には、恵み深く、全き者には、全くあられ、きよい者には、きよく、曲がった者には、ねじ曲げる方」(25節)だと、ダビデは歌います。

. .ダビデは「高ぶる目は低くされます」(27節)と詠んでいますが、それは、神の謙遜が、ダビデを「大きくされ」(35節)たことを知っているからです。神ご自身が謙られるのを知る時、どうして、私たち人が高ぶることができるでしょうか。

高知県・越知町の大樽の滝


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