. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 52 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「主は、王に救いを増し加え、油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。」                                       詩篇18:37〜50 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .表題の「サウルの手から彼を救い出された日」とは、いつの時点を意味してのことでしょうか。サウルとその子ヨナタンが、ペリシテ人との戦いに敗れて、あのギルボア山で戦死したときのことなのでしょうか。サウルの戦死は確かに、彼にいのちを付狙われていたダビデにとっては救いであったことでしょう。

. .しかし、その時、ダビデは現実にはまだ「王」としての立場についていませんでした。ダビデが、ユダに人によってヘブロンで油そそがれてユダ王となったのはサウルの戦死後、しばらくしてからのことでした。ましてイスラエル全体の王として油そそがれたのは、それから更に7年半も後のことです。しかしもし、この詩篇の表題「サウルの手から、、救い出された日」が、サウルの戦死の時を意味するとするならば、その時点で、ダビデは「王」としての自覚を持っていたことになります。この詩篇の最後の節、50節にダビデは「主は『王』に救いを増し加え、、、」と歌っているのです。

. .そのことばに続く「油そそがれた者」ということばは、ユダの人やイスラエルの人々と言う人間的なレベルでの油そそぎ、王となってくれるようにと言う要請に勝って、神による油そそぎこそ人を「王」として立てるものだということを頷いていたのかもしれません。そうであるならば、ダビデの信仰はなんと素晴らしい信仰でしょうか。ダビデはソウルの追及の手を逃れて、ユダヤの荒野に放浪していた時も、彼は既に「王」としての意識を心に抱いていたことになります。それでありながら、サウルのいのちを奪う機会が二度にわたって訪れてきた時、ダビデはサウルに自分お手を下すことをしませんでした。

. .神が「民の争いから」ダビデを「助け出し」、「国々のかしらに任じられ」るまで、ダビデはじっと神の時を待ちました。なぜならダビデは「主は生きておられる」(46節)お方であり、この方こそダビデのために「復讐する方」、「諸国の民を、、、従わせてくださる」(47節)お方であることを頷いていたからです。そして今、その時が来、ダビデがその事実を主の御前に詠ったのがこの詩篇だったのです。

高知県・越知町の大樽の滝


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