. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 59 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。その栄光の王とはだれか。万軍の主。これぞ、栄光の王。」                                       詩篇24:1〜10 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .この詩篇では、ダビデは先ず「主」、最後の節には「万軍の主」と言われるお方が、どのような方かを描いています。すなわち、主は、全世界の創造の主です。「まことに主は、海に地の基を据え、、、それを築き上げられた。」(2節)。全地を創造されたお方であるゆえに、全地の主でもあるのです。

. .このような「主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける」ことは、被造物である私たちにとって、必要・不可欠なことです。そのためには「主の山に登り」、「その聖なる所に立つ」(3節)必要があります。「神を求める」必要があります(6節)。

. .多くの人は、祝福を慕い求めるゆえにその与え主である主を求めることをします。しかし、祝福を手にするとそれで終わってしまいます。彼らが求めているものは、神の祝福であって神ご自身ではないからです。

. .ダビデは、「神を求める」ことは、神の祝福を求めることではなく、神ご自身の「御顔を慕い求める」ことだと言っています。こうして、この詩篇の前半は、後半へと自然につながってゆきます。神ご自身を求める人々は、主である神を心の王座に迎えることによって、その心の渇望を満たします。「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。」(7節)。内なる宮殿に迎えられて、そこにあって君臨したもう栄光の主の事実こそ、ダビデを初め、すべての信仰者にとっての奥義であり、彼らの栄光の望みなのです(コロサイ1:27)。

高知県・越知町の大樽の滝


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