. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 62 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。あなたの恵みが私の目の前にあり、私はあなたの真理のうちを歩み続けました。」                                       詩篇26:1〜12 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .私たちは、自分で自分を可としてしまって、自らを主のみ前に持ち出すことをしません。私たちは自己免許皆伝的なのです。しかし、ダビデはそれでは満足しませんでした。彼は自らを主のみ前に持ち出して、主が「調べ、試みてくださ」るのを待ち望みました。このプロセスを通って初めて、私たちは真に傷のないものと言えるのです。私たち人間の良心はしばしば偽るもので、自分で大丈夫と思っても、主が放たれるエックス線の光に自らをさらす時、普段見えなかった傷がしばしば浮かび上がってきます。もし、それでも何もなかったら、それこそ本物です。

. .確かに、人間にはそれぞれ良心が与えられていて、その光に従って生きている人もいることでしょう。しかし、聖書を見ますと、良心には「腐った良心」、「死んだ良心」、「鈍くなった良心」、、、と様々な良心のあることが記されています。良心が備えられていても、役立たなくなっていることがあるのです。

. .この詩篇には2回「誠実に」(1、11節)と言うことばが見出されます。ダビデの場合、その「誠実さ」は、自己免許皆伝的な「誠実」ではなく、主のみ前に試され、試みられた上での「誠実さ」でした。それですからダビデは「あなたの真理のうちを歩み続けました」と言い得たのです。

. .ダビデは「不誠実な人とともにすわらず、偽善者とともに行きません」(4節)でした。また「悪を行う者の集まりを憎み、悪者どもとともにすわりません」(5節)でした。

. .それはダビデにとって主の恵みのゆえであって、自分の注意深さや努力の結果ではないことを弁えていました。ダビデは「あなたの恵みが私の目の前にあり、、、」(3節)と証ししています。

高知県・越知町の大樽の滝


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