. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 68 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。」             詩篇34:1〜7 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .表題には「ダビデによる。彼がアビメレクの前で気が違ったかのように装い、彼に追われて去ったとき」とあり、Tサムエル21章10〜15節へ関連づけられています。しかし、アヒメレクは、ダビデがペリシテ人の地に行く前に立ち寄ったノブの祭司の名であり、ダビデが気が違ったかのように装ってその前から逃れたのは、アキシュ王でした。詩篇の表題は霊感を受けたものではありませんから、編集者が思い違いをしたのでしょう。

. .ダビデにとっては大変苦しい時期でした。しかし、この詩篇は「私はあらゆる時に主をほめたたえる」と告白しているのです。「私の口には、いつも、主への賛美がある」。どのようにしたら、そのような生涯を生きることができるのでしょうか。

. .ダビデはその秘訣を、貧しい者が「主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」(5節)と書きしるしています。「貧しい者」とは、独特の概念を持った旧約聖書の用語で、単に「貧しい」という状態を語っていることばではありません。そのように言われている人々は、貧しいがゆえに、この世のものである富や社会的地位により頼むことができないで、主を仰ぎ、主により頼んだ人々のことです。貧しいこと自体に幸いがあるのではなく、その中から「主を仰ぎ見」、主により頼んだことに意義が、そして彼らの特徴があるのです。

. .「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」のです。主の御顔を光に照らされて、彼らは苦難と試練の只中で「輝い」ているのです。現実には「貧しく」、「恐怖」があり、「悩み」、「苦しんで」いても、主の御助けのゆえに、ダビデを初めとする、このような人々は「輝い」て、「いつも主への賛美」を見失いことがありません。彼らは「あらゆる時に主をほめたたえる」のです。

高知県・越知町の大樽の滝


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