. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 69 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」           詩篇34:8〜22 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .人々は幸せを見ようとして「舌に悪口を言わせず、くちびるに欺きを語らせ」ないように、、、と、道徳的に生きようと努力します。しかし、善行によって主のみ前に受け入れられることは、人にとって難しいことです。努力し、正しく生きようとする人ほど、自分の出来ていないことを悟り、絶望の淵に沈み込みます。それが宗教改革者マルチン・ルーテルの経験でした。

. .自分の義を追求していたルーテルは、その追及に行き詰まり、その果てに自分の義ではなく、神の義、神が備えてくださった義、へと心を向けるようになります。すなわち、自分の罪深さを、主の御前に認識して、砕けることを学んだのです。彼は、主が「心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる」ことを学びました。

. .「主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。」−宗教改革者が見出した真理は、この真理でした。彼は善行主義を教えるローマ・カソリック教会の過ちを悟り、それを疑問として提示したのでした。その質問状が改革への切っ掛けとなったのでした。

. .「主の素晴らしさを味わい、これを見つめよ。」−信仰の眼差しは、主の麗しさ・素晴らしさを見つめます。そして、そこにあって満足するのです。「幸いなことよ。主に身を避ける者は。」文語訳では「主に身を避ける」を「主に依り頼む」と訳しています。聖書の教える「信仰」とは、聖書の真理を頭脳的に受け入れる行為以上に、継続的に主に依り頼む姿勢を意味しています。そのように主に依り頼む人は幸いです。

高知県・越知町の大樽の滝


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