. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 71 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな。」           詩篇35:17〜28 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .ダビデは、追い迫り、彼のいのちを求め、わざわいを図る者がいて、大変な情況に追い込まれています。しかし、ダビデは、苦しみ、悩みの中にあることが、主のみこころなのではなく、主ご自身は、ダビデ、すなわち、主のしもべの繁栄を喜ばれる神であることを知っています。

. .それでは、主がそのしもべらの繁栄、また、幸いを喜ばれるのに、なぜ現実には、神のしもべたちの生涯に苦難、悩みなどの人生における試練があるのでしょうか。この詩篇の27節を見ますと、主がそのしもべの繁栄を喜ばれると共に、しもべの義を喜ばれることも記されています。

. .主が、単に繁栄を喜ばれるだけではなく、その義をも喜ばれるところに、神の子らの生涯に、苦しみ、悩みが襲ってくる理由があります。聖書の宗教は、いわゆるご利益宗教ではなく、私たちをキリストの似像に変容させるための信仰です。神の義とはまさにそのことに拘わっています。

. .神は、私たちのこの地上での幸せのみではなく、それ以上に永遠での幸せを願っておられます。地上での繁栄のみなら、繁栄をもたらすのみでいいでしょう。しかし、永遠の世界での幸せを手にするためには、神のしもべが、神の義に与る必要があります。その神の義を私たちの生涯にもたらすために、しばしば、苦しみがその手段として用いられるのです。

. .人は、神の真理・神のみこころを学ぶことに遅い存在です。神は、そのような人間を、苦しみの炉を通過させることによって、金や銀のように尊い金属として、神のしもべらを精錬されることがしばしばあります。繁栄を喜ばれることには、変わりありません。しかし、それ以上に、主は、そのしもべらを義を喜ばれる神なのです。

高知県・越知町の大樽の滝


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