■ 今日の「井戸掘り」
. . 「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎだせ。」 詩篇 62: 1〜12
■ 井戸を掘りましょう:
. .引用した聖句は、8節です。その前の1節には「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む」とあります。祈りには、この二つの節によって暗示されるように、対照的な二つの形態があります。
. .第一は「沈黙の祈り」です。神の御前に沈黙して、ただ神を待ち望む形です。神の御前における沈黙は立派な祈りです。私たちの祈りは、しばしばこの形態をとります。心を言い表すのに適切なことばが見出せないのです。そのような時には、私たちの心をも弁えていてくださる神の前に沈黙します。
. .しかし、祈りには沈黙の祈りと全く異なった祈りのもう一つの形態があります。それが8節にある「心を注ぎだした祈り」です。ことばの限りを尽くして、思いの限りを尽くして祈る激しい形態の祈りです。人は、そのどちらかに偏ることがあるかもしれませんが、祈りに、この二つの形態があることを知っていることは大切です。特に沈黙が祈りであることを学ぶことは、大きな慰め・励ましになることでしょう。
. .大変な事態に直面する時、しばしば私たちの思いは、ことばが見出されるより早く頭の中で回転します。ことばにして祈っていたのではそのスピードについてゆけないのです。そのような時、神が私たちの心を見られ、その思いのすべてを弁えていてくださることを思って、祈りは必然的に沈黙の祈りになります。
. .心を注ぎだして祈ったことがありますか。黙想的な祈りを破って、時折、たましいを、自分のすべてを注ぎだして祈ることを学ぶことも大切です。神学院の合同祈祷会は、正にそのような場でした。誰をも憚らないで、大声で神の御前に叫ぶ時です。もうことばがみ言い出せなくなるまで、思いのたけを主の前にぶつける時、それがBТCでの合同祈祷会でした。そのような祈りの積み重ねが、沈黙の祈りの力を増し加えるのです。