. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 84 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、、、、。」     詩篇 63: 1〜11  

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .人はいろいろなものに渇きます。愛に飢え渇き、平安を求めて喘ぎます。また、恐れからの解放を渇望することでしょう。ある人は、富や名誉、地位といったものに飢え渇いています。しかし、このような諸々の渇きの中で最も強烈なのが、この詩篇の作者が表明しているような神に対する渇きです。

. .4世紀の神学者アウグスチヌスが言うように、人は神によって創造されたのですから、創造主である神を見出すまでは決して満ち足りることがないのです。真の神以外の何を与えても、それらは所詮、代表物に過ぎないので、真に心を満たすことはできません。人の心には神しか満たすことのできない空虚な穴が広がっています。

. .ダビデは神に渇き、その神を見出しました。その時「水のない、砂漠の衰え果てた地」は、ダビデにとって「聖所」、すなわち、神の臨在を間近に感じることのでききる場所、となったのです。神の臨在のゆえに、ダビデのたましいは満ち足り喜びました。それが第二の分節に表現されています。「私のたましいはが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。」

. .神を見出した人にとって、環境は問題となりません。たとえそれが「砂漠の衰え果てた地」であっても、そこに喜びと満足を見出すことができるのです。使徒パウロが表現したように、そのような人は「貧しさの中にいる道も」「豊かさの中にいる道も知っています。」 その人にとっては、神がすべてのすべてとなったのです。

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高知県・越知町の大樽の滝


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