. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 86 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「いつ、あなたは私のところに来てくださいますか。」      詩篇 101: 1〜 8  

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .「欺く者は、私の家の中には住みえず、偽りを語る者は、私の目の前に堅く立つことができません。」何故なら、ダビデは、イスラエルの王・支配者として、主である神に「いつ、あなたは私のところに来てくださいますか」と問いかけているからです。欺きのあるところ、また、偽りを語る者がいるところには、聖なる神である主は来られないからです。主がその臨在を、明らかにしてくださる処は聖きが支配する場所でなければなりません。

. .ダビデ王は、聖と義とをもって、その王国を治めることを願っていました。それは聖なる主ご自身の臨在によって可能になります。そして、その臨在のためには、客人を家に招きいれるとき汚いままで迎えるのではなく、綺麗に掃除し整えてから、その方を招き入れるように、主のみこころに適わない人々、主の御心に反して行動する人々を綺麗に掃除して、家から追放する必要があります。ダビデはその決意をこの詩篇に表明しているのです。「朝ごとに、私は国の中の悪者をことごとく滅ぼします。」と。

. .それは「主の都から、不法を行う者をことごとく断ち切るため」なのです。ダビデのこのような決意、また、行動は、自分が委ねられている国、また、都が「主の」都であり、「主の」国であるとの理解からきています。ダビデは自分お好き嫌いで行動しているのではなく、主がどのようなお方かを判断して、そのご性質に従って、彼の(ここに「彼の」とは、彼の所有ではなく、彼が委ねられたと言う意味での「彼の」)王国の支配原理を見出しているのです。イスラエルの王国は、専制君主が治める王国ではなく、王は、神の代行者としての権力者だったのです。サウルはその理解に欠けていて失脚しました。ダビデは、サウルの失敗があったので、より慎重になったのかもしれませんが、神の代行者であることを強く意識して国の統治に当たりました。

. .キリストの教会は、ダビデの王国とは異なりますが、教会の上に立てられている牧者に求められることは、ダビデの王国と同様で、その権限は、牧師自身にではなく、牧師は、教会を管理運営するように、主からその権限を委ねられた存在です。ここ理解が欠如する時に、その教会の私有化が始まり、教会は、キリストの教会から、○○牧師の教会に変質してしまいます。

高知県・越知町の大樽の滝


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