■ 今日の「井戸掘り」
. . 「人々が私に『さあ、主の家に行こう』と言ったとき、私は喜んだ。」 詩篇 122: 1〜 9
■ 井戸を掘りましょう:
. .120篇に始まって134篇まで、15の詩篇に「都上りの歌」という表題がつけっれています。そのうちの幾つかが「ダビデによる」とされています。「都上り」と訳されている語は、英語で「」とあるように、エルサレムへ上京してくる巡礼の歌なのか、または、神殿の階段を登って行く時の歌なのか、その解釈に関して幾つかの説があります。
. .詩篇には、礼拝の場所にゆくことの喜び、そのことに対しての心の渇きを表明した詩篇が幾つかあります。詩篇122篇はそのひとつで、冒頭に「人々が私に『さあ、主の家に行こう』と言ったとき、私は喜んだ」とあります。その他では、ダビデの詩篇ではありませんが、詩篇42篇がよく知られています。「いつ、私は行って、神の御前に出ましょうか。」 神の御前にでるとは、神殿へ礼拝のために行くことが意味しています。詩篇42篇は、そのような礼拝への渇きを表明している詩篇です。
. .創造主である神を礼拝するという行為は、被造物である人にとって当然の行為であり、人の心に満足と喜びを与える事柄なのです。それなのに、罪にまみれ、真の神から離反してしまった人にとっては、礼拝は、単に義務や強制に変質してしまって、そこから喜びが失われています。
. .「私は喜んだ」。霊である神を礼拝することの喜び、また、それがもたらす満足を味わい知ったキリスト者でありたいものです。ある仏教徒のようなお勤め意識から解放されて、礼拝において神に聴き、また、私たちが語り、生きた神と交わることの甘美な体験が私たちのものでありますように。礼拝が異教徒のような勤行になってしまわないように心したいものです。