. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 9 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」.     詩篇16:6〜9 

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .ダビデの信仰の特徴が、この「私はいつも、私の前に主を置いた」ということばによって表されています。神学的には、主は霊なるお方ですから、私たちの前にも後ろにも右にも左にもおられます。主なる神は遍在であって、主がおられないところは世界中どこに行っても見当たりません(詩篇139篇5〜10節)。

. .ですから「私の前に主を置いた」と言うのは、ダビデの心の中での営みなのです。ダビデはいつも、主が自分の前におられることを意識して行動しました。ことばを口にするにしても、主のみ前で、主が耳にしておられることを考えて語ることばであることを意識すれば、自然とことば遣いが異なってきます。行動をするに際しても、主がすぐ前におられることを意識する時には、当然そのように行動することでしょう。

. . 「私の前に主を置いた」は、ダビデの心の営みですから「主が私の右におられる」ということばと少しも矛盾しません。「私の右におられる」、これもまたダビデのこころのあり方を示すもので、主がいかに近くあられ、また、その事実が、いかに心強いことであるかを物語っています。「右」は、イスラエル民族の間では、「力」の概念と結びついていました。ダビデは主の臨在ゆえに、力強さを覚えていたのです。彼は「ゆるぐことが」ありませんでした。

. . 私たちは、主を何処に置いていますでしょうか。また、主が何処に居られると意識していますでしょうか。ダビデと同様に「私の前」に「私の右」に、主が居られることを意識していますでしょうか。それとも、私にとって主は、遠く天に居られるだけのお方なのでしょうか。

高知県・越知町の大樽の滝


Copyright2004 PZH
Allrights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる