■ 今日の「井戸掘り」
. . 「あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」. 詩篇16:10、11
■ 井戸を掘りましょう:
. .創造主である神と共に歩む人生は「いのちの道」です。しかも、それはこの地上でのことに止まらないで、永遠へと続いてゆく「いのちの道」なのです。「あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。」
. .新約聖書は「いのち」について多く語っています。そもそも主イエスが良き羊飼いとしてこの地上に来られた目的が「羊がいのちを得、またそれを豊かに持つため」でした(ヨハネ10:10)。ここに「いのち」と「豊かないのち」と二重に書かれているように、いのちには「生物学的ないのち」とそれとは異なった次元の「永遠のいのち」とがあります。「生物学的ないのち」は地上の、この世の、いのちですが、「永遠のいのち」は、必ずしも、それに対比された天の、そして、彼の世でのいのちとは限りません。「永遠の」という形容詞は、「地上の」、「この世の」と区別するための形容詞で、私たちが通常考えるいのちとは「別の次元の」と言う意味です。
. . この「永遠のいのち」は、地上のいのちと同時的に持つことができます(ヨハネ6:47、動詞が現在形であることに注意)。それに与るために「肉体の死」を待つ必要はありません。肉体のいのちと同時に、平行して持つことのできるいのちなのです。クリスチャンとして生きるということは、このキリストのあるいのちに与って生きることであり、具体的には、永遠のいのちは聖霊によって私たち、信じる者にもたらされます。クリスチャン生涯が可能なのは、このいのちに与っているからに他なりません。クリスチャン信仰は、単なる人間的な修養の結果、努力の賜物ではないのです。
. .「肉体のいのち」は、やがて死の時、それが朽ちる時を迎えます。しかし、神はその「聖徒」に「墓の穴をお見せにはなりません」。主は、その「たましいをよみに捨ておかず」(詩篇16:10)に「いのちの道」へと導かれるのです。「地上のいのち」は朽ちても、既に与えられている「永遠のいのち」、「キリストのいのち」、「御霊のいのち」が、永遠的な意味合いもって、その人をなお生かすのです。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)。
. . ダビデが、詩篇16篇の最後の節に、第9項で見たように「御前」、「右」に言及しているのは興味深いことです。この11節では、しかし「私の前」、「私の右」ではなくて、「あなたの御前」、「あなたの右」です。そして「あなたの御前には喜びが満ち」、「あなたの右には、楽しみが」あると証ししています。ダビデの心における、信仰による主との交わりの世界がこれらのことばによって表現されています。