. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 91 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません。」                  詩篇 131: 1〜 3  

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .礼拝者の心がけがここに表明されています。謙遜と弁え、そして、主を待ち望む姿勢、この3つは、主を礼拝するものにとって不可欠な態度です。

. .まず、第一に必要とされるのが「謙遜」でしょう。主の御前に謙ることこそが、礼拝です。そもそも「礼拝」と言う語は、主の前に「ひれ伏す」ことを意味しています。自分の空しさを自覚して、主の御前にでてくる姿勢が礼拝の姿勢です。

. .第二には「弁え」です。及びもつかない分野に踏み込まない、深入りをしない姿勢が、礼拝者には大切です。例えば、聖書に見る「三位一体」に関する教え、限界のある人間の理性でいくら思索しても、その教えを理解できるものではありません。聖書に書かれているということをもって、受け入れ信じる姿勢が要求されるのです。エホバの証人初め、異端と呼ばれるグループは、聖書が明らかに教えている教理を、自分の理性で理解できないからと言う理由で拒否し、異なった教えへと逸脱してしまったのです。彼らは「及びもつかないこと」があることを認めたくないのです。

. .最後に「待ち望み」の姿勢です。待望には、自己吟味と反省と言う要素も含まれますでしょう。主を待ち望む間に、こころは、自らが主のみ前に立つに相応しいか、主とお会いするに似つかわしいかを吟味し、自らを整えようとします。「たましいを静めて」御前に出ることが礼拝の最大の準備です。そのような姿勢で主を待ち望む時、主は必ず、私たちにそこで出遭ってくださいますでしょう。主を待ち望むことは、決して空しく終わることはないのです。

高知県・越知町の大樽の滝


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