. . フィリップの「井戸掘り日記」、第一のシリーズ「ダビデの生涯」に学ぶが終わりましたので、今回から第二のシリーズ「ダビデの詩篇」と題して、ダビデによる詩篇から水を汲みます。
「ダビデの詩篇」 に学ぶ : 第 92 講
■ 今日の「井戸掘り」

 . . 「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」                  詩篇 133: 1〜 3  

  ■ 井戸を掘りましょう:

. .この詩篇の作者であるダビデは、冒頭に引用したように「なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」と詠んでいます。しかし、私たちの周囲の現実の社会を見ますと、兄弟が争いあって、共にいることがたのしみ、しあわせではなく、その逆に、苦しみ、辛さという関係にある兄弟姉妹があります。なんという不幸、なんという惨めさでしょうか。

. .何が、そのような不幸で、惨めな関係に、現実の兄弟姉妹を追いやってしまったのでしょうか。二次的、三次的原因は様々と考えられますでしょう。しかし、究極的な原因は、結局、人に自己中心的な生き方にあるようです。他を顧みないで、自分の利益のみを追求し、自分の考えだけを押し付ける、そのような利己的な生き方が、兄弟仲を悪くし、姉妹の関係を気まずいものにしています。

. .このような蟻地獄から脱却する道はあるのでしょうか。どのようにしたら私たちは自己中心、利己主義から救われて、兄弟姉妹が仲良く過ごすことができるのでしょう。「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである」という、この詩篇お締め括りの句がその解決へのヒントを与えています。

. .すなわち、お互いの人間関係の中心に主が居られるか、主の祝福が注がれているかが、その鍵なのです。主を度外視して人間だけの関係を追及しますと、どうしても自己中心になります。人は自分が可愛いから、大切だからです。しかし、主を知り、その恵みに与りますと、主がそうであられたように、他の人のために自分のいのちを与えることの素晴らしさを学ぶようになります。そして、自己中心が罪そのものであることへの自覚が生まれてきます。

. .「兄弟のために自分おいのちを捨てる、これより大きな愛はありません。」主を知ると言うことは、そのような愛を知り、そのような愛に生きることです。その時「見よ。兄弟たちが一つになって共にすむことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」と告白するようになります。

高知県・越知町の大樽の滝


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