■ 今日の「井戸掘り」
. . 「主よ。私をよこしまな人から助け出し、暴虐の者から、私を守ってください。」 詩篇 140: 1〜13
■ 井戸を掘りましょう:
. .ダビデは自分の周囲に「心の中で悪をたくらみ、日ごとに戦いを仕掛けて」くる「暴虐な者」、「よこしまな人」、「悪者」の存在に気づいていました。
. .彼らの攻撃はまず「舌」によるもので、彼らは舌を「蛇のように」鋭くしています。そして、その「くちびるの下には、まむしの毒があります」。私たちの時代、インターネットのブログを通して、様々な中傷、侮辱が書き綴られて、多くの子どもも大人も傷ついていると聞いています。ことばによる攻撃です。それは手を下しての攻撃同様、人をひどく傷つけるものです。
. .彼らは攻撃の第二段階として、ダビデの足に「わなと綱を仕掛け」ました。「道ばたに網を広げ、、、落とし穴を設けた」のです。ことばの攻撃がエスカレートして具体的な攻撃へと移っていっています。
. .こうした状況の中で、ダビデは主に申し上げるのです。「あなたは私の神。主よ。私の願いの声を聞いてください。私の主、神、わが救いの力よ」と。ここに神が「私の神」、「私の主」と呼びかけられていることは、大変大切なことです。神との個人的な関係の中にあることが、神に叫ぶ基礎なのです。そのような日ごろの個人的関係なしに、日本のことわざにあるように困った時の神頼みをしても、そのような信仰に意味があるかどうかわかりません。普段から、神を知り、主と交わる生活をしているからこそ、非常時に主に向かって叫ぶことが妥当とされるのではないでしょうか。とはいっても、主である神は、憐れみに富んだお方、その慈しみの尽きない方ですから、困った時の神頼みでも、決して私たちの叫びを無視されることはありません。
. .「あなたは私が武器をとる日に、私の頭をおおわれました」。神に信頼して、神の助けを期待するということは、自分で何もしなくてよい、と言うものではありません。ダビデは、悪しき者、暴虐な者と戦うために、自らも武器を手に取ったのです。自衛のための戦いは、許されているのではないでしょうか。自分からは何もしないで、ただ神の救いを待つ姿勢は、神がそうお命じになればべつですが、しばしば狂信的な信仰につながります。信仰者としてなすべきことを怠って、ただ神の干渉のみを待ち望むことは、決して真の信頼とは言えませんでしょう。