. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデ以外による詩篇」 に学ぶ : 第154講
■ 今日の「井戸掘り」

 「私はつまらない者で、さげすまれています。しかし、あなたの戒めを忘れてはいません。」              詩篇119:1〜176Q 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   自分が「つまらない者で」あることを自覚することは、主の恵みを更に尊いものとして受けとめるよすがとなります。主の御前に謙ることは、人間的に自分が価値のない者であることを意味するものではありません。人間的に、どのような偉大な業績があったとしても、それは、主の御前ではつまらないこと、贖いには無関係のことをh自覚することです。たましいを贖うことは、大変なコストで、誰一人その代価を自ら担うことのできるものはいないのです。

   人の蔑みは、この詩篇の作者の、主のより頼む姿勢のゆえでしょう。主により頼むことは、人の、特に、信仰のわからない傲慢な人には、蔑みの理由となります。彼らにしてみれば、情けない、だらしない、といった思いがするからです。傲慢な未信者は、神を否定し、自らが自存していると思い上がることを誇りと考えているのです。主に依り頼んで、その戒めを必死で守る信仰者の姿は、彼らには、惨めに見えます。それで、信仰者は、未信者の蔑みの対象となるのです。

   蔑まれようと、嘲られようと、作者にとっては、主の「仰せは、、、喜びです。」ですから、主の「戒めを忘れない」のです。作者は「それを愛してい」るのです。

高知県・越知町の大樽の滝


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