. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデ以外による詩篇」 に学ぶ : 第171講
■ 今日の「井戸掘り」
「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ。だれがあなたの御前に立ち得ましょう。」 詩篇130:1〜8
■ 井戸を掘りましょう:
この後には「あなたが赦してくださるからこそ、あなたは人に恐れられます」と続いています。主である神の赦しに対する信仰なくしては、人は神に近づくことはできませんし、まして、その前に立つことは及びもつきません。
人は、例外なしに、罪ある存在で、神の御赦しがあって初めて、神に接近することができる存在なのです。しかし、神の側でも、安易に人を赦すわけにはゆきません。神は愛のお方であると同時に、義なるお方で、その義が満足されないかぎり、赦しを宣告する訳にはゆかないのです。
ここに神の義と愛の葛藤・対立があります。その唯一の解決は「贖い」にありました。「主は、すべての不義から、イスラエルを贖われる。」 「贖う」とは、代価を支払うことです。そして、罪の代価は、死以外にはありませんでした。
どのような善人にせよ、人が死んだのでは、その個人の罪を贖うのみで、全人類の罪を贖うことにはなりません。全人類の罪を贖うには、神=人である存在がいなければならないのです。ここに御子の受肉の理由があります。神であるお方が、人の姿となって、人に代わって、その罪を担うときにのみ、贖いが成立するのです。