. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデ以外による詩篇」 に学ぶ : 第20講
■ 今日の「井戸掘り」

    「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る。」             詩篇33:1〜22B 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   人は、創造主である神を離れて、自分の願望を満たそうと様々と計画を立てます。しかし、その計画が主のみこころに適わない限り、それらはむなしくされます。人のすべての計画・はかりごとの背後に、主の干渉があることを意識して、主のみこころを求める人は幸いです。そうでない人は、むなしさを味あうことになります。

   けれども、そのような人々は、神を認めませんので、自分の計画がなぜ駄目になったか、その理由を知ることがありません。ある人々は、人生における、人知を超えた永遠者の関与を「運命」という概念で理解します。ある人々は、すべてを「偶然」にきします。ヒンズー教や仏教の背景をもつ人々は「カルマ・業・因果」を主張しますでしょう。

   しかし、運命、偶然、因果といった理解は、真実を語っておらず、キリスト教的な「摂理」と言う概念のみが妥当な説明と思われます。「摂理」とは、人生における様々なことどもに、永遠なる神の干渉があることを頷くことで、その神による干渉を、「摂理」・神によるすべても物事の配剤、と呼ぶのです。神の御手の干渉を経ないで起こりくる出来事は一つもありません。すべてのことは、神の承認と許可を経て、私たちの生涯に起こってくるのです。

   「摂理」と呼ばれる神による配剤は、人格的なもので、その点で「運命によるもの」とも、「絶対主権による支配」とも異なります。創造主である神は、人の態度・姿勢に応じて、柔軟に物事を動かしなさいます。神は、ご自分の決定に支配されるお方ではなく、その決定は、神の新しいみこころに従って、変りうるのです。そういいますと、如何にも、いい加減のように聞こえますが、主は、愛と義という原則に基づいて物事を運ばれますので、そこにいい加減さは豪も入り込む余地がありません。

   神は、善にして善をなしなさるお方です。

   

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


Copyright2004 PZH
Allrights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる