このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「私の涙は、昼も夜も、私の食べ物でした。人が一日中『おまえの神はどこにいるのか。』と私に言う間。」 詩篇42:1〜11A
■ 井戸を掘りましょう:
新改訳聖書の第3版では、第2版で、5、6、11節に見出される「絶望している」と言う訳語を変えて「うなたれている」とし、また、「御前で」を「私の前で」に訳し変えました。確かに、5節の後半「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。」をみますと、作者は絶望してはいないことがわかります。
また、第3版の「私の前で」というのは、少々奇妙な表現のような気がしますが、「神の前に」座した時には、うなたれている頭ももたげられるという信仰的な理解に基づいて、のことでしょう。いずれにしても、自分自身に失望していて、頭は垂れているのは事実ですが、失望しきって、絶望の淵にまで行ってはいない、という理解です。
詩篇の作者の失望の理由は、人々が「おまえの神はどこにいるのか」と、信仰の証しを求めてきているのですが、それに答えられないからであり、そこのところにジレンマがあります。詩篇73篇の作者アサフは「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。」と書きましたが、42篇では、コラの子たちが、具体的なことを挙げて、そのように証ししたいにも拘らず、それができない現状から来る悩み・苦しみ・失意を表明しているのです。
私たちは、この詩篇の作者同様、証しできない現状を、涙するほどに悲しく、また、悔しく思うでしょうか。周囲の人々が「おまえの神はどこにいるのか」と嘲っていても、何にも感じないでいることはないでしょうか。