このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。」 詩篇42:1〜11C
■ 井戸を掘りましょう:
詩篇第42篇の最後の節です。「私はなおも神をほめたたえる」とある「なおも」が大きな意味を持っています。主である神に依り頼んだ信仰生涯には、問題・課題がない訳ではありません。神を信じつつ、なお、うな垂れる時もあるのです。しかし「なおも神をほめたたえる」なのです。ここに信仰の真骨頂があります。
見えるところはどうあっても「なおも」であり、情況がどんなに厳しくても「なおも」です。さらに、人々がどのようなことばで嘲っても「なおも」なのです。この「なおも」と言わせるのが、信仰の力であり、信仰の結果なのです。
「私の救い、私の神。」私たちは、この詩篇の作者のように、生ける神を「私の救い、私の神」と言いうるでしょうか。主である神は、それほどまでに、私たちに近い関係にあるでしょうか。それとも、神は、遠くにいます神で、神の存在や神の支配を信じていても、その神が「私の神」になっていないところに私たちの問題があるのではないでしょうか。アルダースゲートの体験以前のJ・ウエスレーの課題は、正にその点でした。英国国教会の教職者の子として生まれ、私たち日本人とは異なって、創造主である神の存在やその性質について疑いを持ったことはなかったでしょう。しかし、その神と自分との関係が密ではない、自分が神に受け入れられたという自覚が欠如していることに、ウエスレーの葛藤があったのでした。
「私の救い、私の神。」これを捉えたのが、あのアルダースゲートでのウエスレーの福音的回心と言われる経験でした。自分が、神に受け入れられ、神が赦しの神であることが心から頷けたのです。