このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
■ 今日の「井戸掘り」
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」 詩篇46:1〜11B
■ 井戸を掘りましょう:
この詩篇46篇中、この10節のみが第一人称で語られています。神ご自身の語り掛けです。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」。この「やめよ」と言う訳語は、いろいろと論議を呼んでいます。文語訳では「静まりて」であり、新共同訳では「力を捨てよ」となっています。新改訳の「やめよ」は、その前の9節の「主は、、、戦いをやめさせ」に呼応するものでしょう。
「主」が戦いをやめさせるとともに、人も、そのような自分の業をやめるように、との招きのことばです。「やめさせる」のは、神の御業ですが、また、それは「やめる」という人間の業にも関わっています。同様に、信仰は神の賜物ですが、それは、信じると言う人間側の態度にも無関係ではありません。全能の神は、不思議なことですが、人間の協力というより、人間の応答を求めて、御業を行われる主であられます。主は、人間の意志を無視して一方的な働かれるお方ではありません。それで「神人協力」と言われますが、イニシャティヴは常に神の側にあることを忘れてはなりません。人が傲慢にならないために、それが大切です。
人間が自分の業を止めて、静まるとき、また、自分の力に見切りをつけて、それを捨てるとき、何が始まりますでしょうか。この詩篇は、神が分るようになる、と言っています。「わたしこそ神であることを知れ。」
神を知るということには、3つ、ないし4つのレベルがあることが、J・ウエスレーによって教えられました。すなわち、知識としてのレベル、人格的な交わりのレベル、聖霊の働きを通しての直感的なレベル、そして、日常生活に生かされた実践的なレベルです。私たちは、どこまで深く神を知りましたでしょうか。