. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデ以外による詩篇」 に学ぶ : 第39講
■ 今日の「井戸掘り」

    「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」                   詩篇46:1〜11B 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   この詩篇46篇中、この10節のみが第一人称で語られています。神ご自身の語り掛けです。「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」。この「やめよ」と言う訳語は、いろいろと論議を呼んでいます。文語訳では「静まりて」であり、新共同訳では「力を捨てよ」となっています。新改訳の「やめよ」は、その前の9節の「主は、、、戦いをやめさせ」に呼応するものでしょう。

   「主」が戦いをやめさせるとともに、人も、そのような自分の業をやめるように、との招きのことばです。「やめさせる」のは、神の御業ですが、また、それは「やめる」という人間の業にも関わっています。同様に、信仰は神の賜物ですが、それは、信じると言う人間側の態度にも無関係ではありません。全能の神は、不思議なことですが、人間の協力というより、人間の応答を求めて、御業を行われる主であられます。主は、人間の意志を無視して一方的な働かれるお方ではありません。それで「神人協力」と言われますが、イニシャティヴは常に神の側にあることを忘れてはなりません。人が傲慢にならないために、それが大切です。

   人間が自分の業を止めて、静まるとき、また、自分の力に見切りをつけて、それを捨てるとき、何が始まりますでしょうか。この詩篇は、神が分るようになる、と言っています。「わたしこそ神であることを知れ。」

   神を知るということには、3つ、ないし4つのレベルがあることが、J・ウエスレーによって教えられました。すなわち、知識としてのレベル、人格的な交わりのレベル、聖霊の働きを通しての直感的なレベル、そして、日常生活に生かされた実践的なレベルです。私たちは、どこまで深く神を知りましたでしょうか。

高知県・越知町の大樽の滝


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