. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ダビデ以外による詩篇」 に学ぶ : 第47講
■ 今日の「井戸掘り」

    「神の神、主は語り、地を呼び寄せられた。日の上る所から沈む所まで。麗しさの窮み、シオンから、神は光を放たれた。」                   詩篇50:1〜23 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「われらの神は来て、黙っておられない」と3節にあります。語り掛ける神、これが聖書の神の特徴です。イスラエルの神は、自らを啓示される神です。神は、自らについて啓示されたのみか、救いの計画、歴史の展開についても語り、示しなさいました。

   そのような啓示を受けて、世にそれを示したのがイスラエルの預言者たちでした。彼らは、人間的な知恵によって何かを語ったのではなく、神からの霊感を受けて語ったのです。語らざるを得なかったのです。アモス書には「まことに、主である神は、そのはかりごとを、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。獅子がほえる。だれが恐れないだろう。神でる主が語られる。だれが預言しないでいられよう。」とあります。

   さて、詩篇50篇に戻って、この詩篇では、神はご自身と「契約を結んだ者たち」について、そのさばきに関して語っておられます。預言者イザヤの時代にも見るように(第一章)、このアサフの詩篇で語られている神の啓示は、形式宗教の空しさについてです。イスラエルの民は忠実に、いけにえを神殿の祭壇に持ってきていました(7〜15節)。しかし、そのような宗教的な熱心さにも拘わらず、彼らが悪を行っていたこと(16〜22節)に対する神の拒絶・忌避が示されています。

   人は、イスラエルの民に限らず、形式宗教に陥りやすいものです。ここに警戒する理由があります。

   

高知県・越知町の大樽の滝


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