. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。
このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
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「ダビデ以外による詩篇」 に学ぶ : 第80講
■ 今日の「井戸掘り」
「主よ。あなたは、御国に恵みを施し、ヤコブの捕らわれ人を、お返しになりました。あなたは、御民の咎を赦し、彼らのすべての罪をおおわれました。」 詩篇85:1〜13
■ 井戸を掘りましょう:
神は、咎を赦す神、すべての罪を覆われる神です。しかし、その代価として、この詩篇には記されていませんが、御子のいのちという代価を、自ら支払われたのです。旧約時代にあっては、それは神殿における牛羊のいけにえとしてシンボライズされていました。しかし、動物のいけにえは、真に、人の罪を贖うことができないので、神殿の行事は、まことのいけにえである神の子羊が現れるまで、日々、また年々、繰り返されたのです。イスラエルの民は、神殿の行事の象徴性に気づきませんでした。ただ、定められた戒めを執り行っていれば、十分と考えていたのです。
しかし、神は、動物のいけにえでは、満足なさいません。人の罪を贖うには、人の血が流されなければならないのです。そして、それは尊い御子の十字架で流された血以外の何ものでもありませんでした。ヘブル人への手紙は、神殿での行事が、影にしかすぎないで、真のいけにえは、御子によって、ただ一度捧げられるものであることを解き明かしています。
主である神は、御子のいけにえを見て満ちたり、「激しい怒りをことごとく取り去り、燃える御怒りを、押しとどめられ」たのです。しかし、イスラエルは、そのことに気づかず、誤解したままで、神殿行事に固執していました。