■ 今日の「井戸掘り」
. . 「神はご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、、、。」 ペテロの手紙1:3A
■ 井戸を掘りましょう:
聖書は「神の愛」、「神の慈悲(いつくしみ)」、「神の恵み」、「神のあわれみ」と神の愛に関することを多く語っています。また、こうしたことばに付されている形容詞も豊富で「永遠の」、「朽ちない」、「自由な」、「深い」、「大きな」などなどです。神の愛は、虹のように、美しいさまざまな色の光を放って私たちの上に降り注いでいるのです。
ここでペテロが用いているのは「神のご自分の大きなあわれみ」と言う表現です。日本人の仏教を背景とした「あわれみ」の理解は、芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」に良く表されています。仏は極楽に在って、地獄にいて苦しんでいる一人の男を見、憐れみを施します。「憐れみを施す」と言う表現が示唆するように、哀れみと言う感情は、仏教的な文脈では、上から下への感情的な動きを示しています。
これに対して、聖書における「あわれみ」は、英語で「コンパッション」と訳されているように、「ともに」という意識を特徴としています。上から下へではなく、傍にあって、、、なのです。英語の「シンパシー」にしても、その接頭語の「シン」は、交響曲(シンフォニー)に見るように、「ともに」を意味しています。苦しみを共に分かち、痛みを共に感じる、それが聖書的な「あわれみ」の情です。新改訳聖書の訳者が、「憐れみ」と漢字を用いて翻訳しないで、「あわれみ」と敢えてひらがなで表現しようとしたのは、そのあたりの理由からでしょう。
神は、愛ゆえに心を動かされて、キリストを死者の中からよみがえらせられました。しかし、ペテロは、キリストの死者の中からの復活に関して「よみがえられた」と能動形を用いて語ります。聖書の他の場所には「よみがえらせられた」という受動形の形も見出されるのですが、、、。
この点に関しては、別の機会に書くことにして、今回は「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに」と言う句に、私たちの思いを集中して締め括りましょう。神のあわれみ、共感、想いを同じくされると言うことは、御父とイエス・キリストと言う関係においてのみみられるのではなく、私たちに対しても、神が抱いておられる感情・想いです。エレミヤは「主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」と詠いました(哀歌3:22、23)。
■ キリスト、ペテロの足を洗う