. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第101講
■ 今日の「井戸掘り」

   「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」         ペテロの手紙4:9 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「つぶやく」ことの反対は、「感謝する」ことです。パウロが書いているように、神の子たちは「すべての事について、感謝」するのです。なぜなら、それが「キリスト・イエスにあって神が、、望んでおられること」だからです(Tテサロニケ、5:18)。

   神への感謝の心が豊かであるとき、私たちは、その感謝の気持ちを具体的な形で表そうとします。それは時に、神への捧げものとして表現されるでしょう。時にそれは、周囲の人々への愛の「もてなし」となって表現されます。それで「つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい」となるのです。

   ローマ時代においては現代以上に、旅人たちにとって、旅先でのもてなしは大変有難いことでした。泊まるための宿がなかったわけではありませんが、そうした宿はしばしば、異邦人の社会では、いかがわしいもので、クリスチャンたちが一夜ニ夜を過ごすには、あまり良い環境ではありませんでした。そのような中で、同信の兄弟姉妹が、招きの手を差し伸べてくれるということは、この上もない助けとなったのです。

   高知では「もてなし」と言えば、「宴会」を指しますが、初代教会における「もてなし」は、皿鉢料理を並べて宴会を開くことではなく、旅の疲れを癒すために一夜の宿を提供することが、その際たるものでした。ぺテロの手紙の読者たちは「、、、に散って寄留している人々」であったことを想い起こしましょう。彼らは「もてなす」側にあるよりか、「もてなされる」側にあることが多かったに相違ありません。それで「互いに親切に」との句が生きてきます。

高知県・越知町の大樽の滝

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