. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第102講
■ 今日の「井戸掘り」

   「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」         ペテロの手紙4:10 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「それぞれが賜物を受けている」―なんと素晴らしいことでしょう。賜物には、生まれつき備わっている自然的な賜物があれば、クリスチャンになることによって与えられた霊的な賜物もあります。このクリスチャンになって与えられた賜物は、生まれつきの賜物と全然異なった賜物の場合もないわけではありませんが、しばしば、自然的といわれる賜物を増強するような形で発揮されることが多いのです。自然的な賜物に神の御手が加えられて、更に優れたものとして主のために用いられるのです。

   「賜物」は、正に、賜ったもの、すなわち、与えられたものですが、自己中心的な目的のために用いるためではなく、神の栄光のために、教会の建徳のために、また、御国の進展のために用いられるべきものです。ですから、それらは、神が管理するように神の子らに委ねたものです。クリスチャンは「神のさまざまな恵みの管理者」でなければなりません。

   賜物は用いることによって、ますます、その価値を大にします。それを用いないで地に埋めたままにしておくと、それはやがて朽ちてしまい、用をなさなくなってしまいます。また、不思議なことに「自分にはそのような賜物はない」とと思っていても、自分で気づかなかった賜物を発見することもしばしばあります。それが必要とされる立場に立たされて、信仰をもって応じる時、それを主が、思わない賜物の発掘の機会として用いられることがあるのです。

   賜物だけを強調することは健全なことではありません。聖霊の実、すなわち、クリスチャン品性の成熟と平行して、賜物の活用を最大限に考えると良いでしょう。

高知県・越知町の大樽の滝

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