■ 今日の「井戸掘り」■ 井戸を掘りましょう:
「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」 ペテロの手紙4:11
「賜物を用いて、互いに仕え合」う道のうち、この節には二つの方法が言及されています。「語る」ことと「奉仕する」ことです。
「語る」のは「神のことば」であって、通常の人のことばではありません。神からの啓示のことば、また、霊感されたことばです。聖書は、そのようなことばが記録されて、現在の形に出来上がりました。「奉仕する」にしても、ただ人間的な一生懸命さだけでは不十分です。「神が豊かに備えてくださる力」が必要です。教会での奉仕は、一見なにごとでもないように思えても、それはすべて霊的な奉仕なのであって、神が与えてくださる力を必要としています。神はそのような力・能力を「豊かに備えてくださる」お方です。
ここ節の鍵のことばは「ふさわしく」でしょう。どの世界でも「ふさわしさ」が求められます。最近、このふさわしさが失われてきて、問題が生じているニュースを度々耳にします。司祭や牧師によるセクハラ事件、学校の教師による生徒へのみだらな行為、介護施設での残虐行為など、、、列挙すれば枚挙の暇もありません。みな「ふぁさわしさ」が欠如していることから生じてきています。クリスチャンは、こうした、それぞれの立場へのふさわしさに勝って「神のことば」、神の与えてくださる力にふさわしくと勧められています。
語り、奉仕する、すなわち「賜物を用いて、互いに仕え合う」ことの目的は「神があがめられるためです。」ペテロは頌栄をもってこの節を閉じていますが、或いは、この節でこの手紙を締め括ろうとしていたのかもしれません。しかし、手紙を使者に手渡す前にもうひとこと、12節以下を書き加えたくなった、という情況でしょうか。
