. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第103講
■ 今日の「井戸掘り」

   「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」        ペテロの手紙4:11 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「賜物を用いて、互いに仕え合」う道のうち、この節には二つの方法が言及されています。「語る」ことと「奉仕する」ことです。

   「語る」のは「神のことば」であって、通常の人のことばではありません。神からの啓示のことば、また、霊感されたことばです。聖書は、そのようなことばが記録されて、現在の形に出来上がりました。「奉仕する」にしても、ただ人間的な一生懸命さだけでは不十分です。「神が豊かに備えてくださる力」が必要です。教会での奉仕は、一見なにごとでもないように思えても、それはすべて霊的な奉仕なのであって、神が与えてくださる力を必要としています。神はそのような力・能力を「豊かに備えてくださる」お方です。

   ここ節の鍵のことばは「ふさわしく」でしょう。どの世界でも「ふさわしさ」が求められます。最近、このふさわしさが失われてきて、問題が生じているニュースを度々耳にします。司祭や牧師によるセクハラ事件、学校の教師による生徒へのみだらな行為、介護施設での残虐行為など、、、列挙すれば枚挙の暇もありません。みな「ふぁさわしさ」が欠如していることから生じてきています。クリスチャンは、こうした、それぞれの立場へのふさわしさに勝って「神のことば」、神の与えてくださる力にふさわしくと勧められています。

   語り、奉仕する、すなわち「賜物を用いて、互いに仕え合う」ことの目的は「神があがめられるためです。」ペテロは頌栄をもってこの節を閉じていますが、或いは、この節でこの手紙を締め括ろうとしていたのかもしれません。しかし、手紙を使者に手渡す前にもうひとこと、12節以下を書き加えたくなった、という情況でしょうか。

高知県・越知町の大樽の滝

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