. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第104講
■ 今日の「井戸掘り」

   「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。」             ペテロの手紙4:11A 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   この頌栄「栄光と支配が世々限りなく」神にありますように、ではなく「キリストにありますように」となっています。初代教会のキリストに対する想いがここに示されていると言えます。初代のクリスチャンたちが、後のアリウス派、また、現代のエホバの証人のようにキリストの神性を否定するのではなく、その真理を堅く受け止めていたことが判ります。

   地上で詠われた頌栄のみか、黙示録を見ますと、天上で御使いたちによって歌われた頌栄でも、御父と御子である小羊は、同じように賛美の対象とされています(黙示録4:11、5:12、13参照)。ここに記した頌栄のうち、第一は「永遠に生きておられる、御座に着いている方に」、第二は「ほふられた小羊」に、そして、第三は「御座に座る方と、小羊とに」であることは偶然ではありません。

   エホバの証人は「礼拝した」というギリシャ語を「敬った」と翻訳して、神のみを対象とする「礼拝」ではなく、人間にも帰せられる「尊敬」にしか過ぎないと詭弁を弄していますが、そのような詭弁で、初代のクリスチャンたちのキリストに対する想いが見えなくなるわけでもありません。

   キリストは本来「神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、、、人間と同じようになられ」たお方です。ニケヤ信条が表明するように「真の人」となられましたが、また同時に「真の神」であられました。地上にあって、全知といった神としての性質には自ら制約を課しておられましたが、子なる神であることには変わりありませんでした。それでピリピ2:7には「人間と同じようになられ、、、」と書かれています。

高知県・越知町の大樽の滝

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