. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第105講
■ 今日の「井戸掘り」

   「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、、、」             ペテロの手紙4:12 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   ペテロの手紙の読者たちは、激しい試練に見舞われていました。しかし、ペテロはそれを「驚き怪しむことなく」と書き送ります。ペテロのそのような勧めの背後に、すべてを支配しておられる神の存在を頷く信仰があると考えてよいでしょう。

   クリスチャンのそのような信仰を、神学では「神の摂理」への信仰と称します。神の御知恵による配剤を頷くことです。創造主である神は、キリストにあって、この世の悪さえもその御手に収め、ご自分のみこころのままに支配しておられます。

   それは許容的とは言え、主のみこころの外のあって起こり来ることは、何一つないということへの信仰です。神が嘉しとされたのだから信仰者は、それを「何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむ」ことはない、と言うのです。

   前節の「栄光と支配が世々限りなくありますように」という頌栄は、単なることばだけのものではなく、そこに表明されていることが、その通りだという深い納得がそこに見られます。起こり来るすべてのことへの「支配」は「キリストにある」と認めることが出来ることは幸いです。

   ルツ記を読みますと、そこにルツの姑ナオミの、次のようなことばが記されています。「私をナオミ(快い)と呼ばないで、マラ(苦しむ)と呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから。」「全能者が私を苦しみに会わせた」と言う告白は、一見、神への恨み言と受け止められかねません。しかし、そうではなく、そこにナオミの摂理への信仰を見ることができます。

   自分を苦しめているものが、仏教が教えるように「業・カルマ」であったなら、諦める以外どうにもしようがありません。イスラム教で教えるように「運命」であるなら、受け止める以外ないでしょう。無神論者は「偶然」だといいます。それでは尚のこと、どうにもすることができません。しかし、ナオミが頷いているように、そこに全能の神が関わっているなら、そのお方は愛の方でもおられますから、その方に苦しみを訴えて祈ることが出来るのです。

高知県・越知町の大樽の滝

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