. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第106講
■ 今日の「井戸掘り」

   「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」             ペテロの手紙4:13 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   またの名をパウロと呼ぶサウロが、キリストと出遭ったとき、キリストは「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」とサウロに語りかけられ、ご自身とその教会とが一体であることを教えられました。教会の苦しみは、キリストの苦しみであり、キリストの苦しみは、教会の苦しみでもあるのです。

   迫害に苦しむクリスチャンたちに、ペテロは「キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい」と書き送ります。苦しみを喜びに変えてしまう凱旋的な信仰生活の姿が、ここに見られます。勿論、それによって、迫害から来る苦しみがなくなったしまうわけではありません。ペテロは、クリスチャンたちの目を遠く、やがてのキリストの栄光の現われへと向けるのです。

   キリストの再臨と呼ばれる終末の出来事は、いつの時代にあっても、信じる者たちの希望であり、喜びをもたらす出来事です。かって、謙卑の姿で地上に姿を現された主イエスが、この次には、栄光の御姿で現れます。救い主として来られた主イエスは、次には、裁き主として来臨されるのです。メシヤ(ギリシャ語では、キリスト)の概念には、その二面性があります。信じ依り頼む者たちのとっては、救いをもたらされる方であり、無視し、あるいは、反逆する者たちにとっては、裁きを執行するお方です。

   ヨハネは「キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています」と書いています。クリスチャンたちが喜びおどるのは、単に裁きが執行されて、それまで自分たちを苦しめた人々が、主イエスによって裁かれるからだけではありません。ヨハネによると「キリストに似た者となる」からでもあります。喜びの最大の理由は、この後者にあります。「キリストに」―こよなく愛し慕っていた主―と同じ姿に変貌させられる時がくるのです。それを見たら、喜び踊らざるを得ませんでしょう。

高知県・越知町の大樽の滝

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