. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第116講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群の模範となりなさい。」             ペテロの手紙5:3 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   牧者、すなわち、教会の監督には、みことばを語る使命に伴う権威が、主イエスから与えられています。ある牧師は、その主からの権威の性質を理解しないで、それを乱用して、群を支配することを始めます。これは残念な事態といわなければなりません。牧者の与えられている権威は、みことばに伴う権威で、教役者がみことばに忠実に使えている限りにおいて行使される権威なのです。牧師が、みことばを離れて個人的な事柄において権威を主張することは許されません。みことばの講解を離れては、牧者と言えども、一人の信仰者として、他の兄弟姉妹と同じ立場にあります。

   牧師が仕えるべき教会が、ここでは「割り当てられている人たち」と表現されていることは、大変興味深いことです。みことばを宣べ伝えると言う使命にかかわる召命は世界大です。福音は、すべての人に宣べ伝えられるべきものだからです。しかし、牧師と言えども時間と空間との制約の許にある訳ですから、それぞれの奉仕すべき人々の範囲を割り当てられなければなりません。

   この「割り当てる」という表現は、IGМが取っている任命制に合致しているように思います。任命によって、奉仕すべき教会、すなわち、ある人々が「割り当てられ」ることとなります。招聘制でも「割り当てられている人々」という概念は有効でしょう。「割り当てる」に際しての形態の相違はあっても、ひとりの牧師が仕えるべき対象が、それぞれに定められているということです。

高知県・越知町の大樽の滝

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