. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第117講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群の模範となりなさい。」             ペテロの手紙5:3A 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   主イエスが、弟子たちの模範として歩み、「わたしの足跡についてきなさい」と語られたように、牧者たる者は、群の模範となることが期待されています。「支配する」と言う関係には、上下関係が示唆されています。しかし、「模範となる」と言う関係には上下関係はなく、同じ立場にあることが示唆されています。

   牧者として、何において群の模範となったらよいのでしょうか。まず第一に、その信仰においてです。頭脳的な理解と言う意味での信仰にとどまらないで、すべてにおいて主イエスに依り頼むと言う意味における信仰においてです。牧師の不信仰は教会を破壊します。働き人の信仰は教会を建て上げます。

   模範となるべき第二の点は、当然愛においてでしょう。主イエスが、こよなく弟子たちを愛されたように、群の牧者は、その群の羊たちを愛するべきです。教会に集まってくる人々は、性格において、また、それまで過ごしてきた人生のあり方において、誠に多様な人々です。考え方において、また、物事の運び方において、しばしば牧師と意見を異にすることがあるでしょう。しかし、それらの、自分とは異なった性格・考え方の人々をも含めて、牧師は、その群の羊を愛することにおいて模範的であることが求められています。特に、牧者が注意しなければならないのは、偏りです。一部の人々にのみ親しくなって、それ以外の人々を疎んじると言うようなことが教会にあってはなりません。

   もう一つ、牧師が群の模範となるべき分野を挙げるならば、それは、希望においてです。神が臨在される教会とても、教会の建て上げの途上で様々な困難に直面します。そのような時、牧師は、希望を失う最後の人でなければなりません。否、常に岩である主イエスに堅く立って、希望を失わずに輝き続けることが期待されているのではないでしょうか。

高知県・越知町の大樽の滝

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