■ 今日の「井戸掘り」
. . 「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」 ペテロの手紙1:3C
■ 井戸を掘りましょう:
キリストの復活と希望とは不可分の関係にあります。ペテロは「キリストが、、、よみがえられたことによって、、、(神は、私たちが)生ける望みを持つようにしてくださいました」と書き、パウロも「もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、、、」、「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけであるなら、、、」と、コリントの教会に書送っています。パウロが言おうとしていることを言い換えれば、キリストの復活が事実であるので、クリスチャンはこの世にあって希望を抱くことができるのだと言うことです。
さて、ペテロの手紙に戻って、ペテロが「生ける望み」と表現にていること注目しましょう。パウロは、キリストの復活が事実でなかったなら「私たちの信仰は空しく」、「キリストに単なる希望を置いているだけ」と言っていますが、「生ける望み」とは、空しくない、単なる希望ではない望みです。すなわち、望むだけで終わってしまうような望みではなく、実現する希望だと言うのです。
4節に「また」と書いて、その後に天の嗣業について言及していますので、天の嗣業とは別のことに関する希望が意味されているようです。では、その「生ける望み」の内容は何なのでしょうか。13節に「イエス・キリストの現れのとき、あなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」と書いていますので、正に、その恵みに与ることこそ、ペテロが「生ける望み」として心に抱いていた事柄ではないでしょうか。
ペテロは、キリストによる救いのを、少なくとも二段階で捕らえていたようです。第一は「たましいの救い」(9節)、そして「終わりのときに現われるように用意されている救い」(5節)です。この第2段階目の救いに関しては、2章にも「それによって成長し、救いを得るためです」と書いています。信仰の結果として与えられるたましいの救いと、成長の末にいたる終わりの時の救いとがあります。
改革派神学では「一度救われたなら、永遠に救われている」として、いわゆる聖徒の永久保全という教理を展開していますが、決してそうではありません。たましいの救いに与っていても、終わりのときに現れるように用意されている救い」を得ることができない人も起こりうるのです。それですから「心を引き締め、身を慎んで」(12節)この世にあって生きることが必要です。
■ キリスト、ペテロの足を洗う