. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第120講
■ 今日の「井戸掘り」

   「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」             ペテロの手紙5:6 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   ジョン・ウエスレーが言うように、聖書的な意味での謙遜は、第一義的には、対神的な姿勢です。「神の力強い御手の下にへりくだりなさい」とあります。表面的にどのように謙遜に見えても、神の御前にへりくだることを知らない人々は、真の意味で謙遜とは言えません。その逆に、そのような人は、傲慢そのものです。

   人は、神の御前にへりくだることを知るとき初めて、人の前にも真の謙遜、主イエスが身に着けておられた謙遜、を自分のものとすることができます。人との関係における謙遜は、それゆえ、聖書では第二次的と言えます。

   「神の『力強い』御手」は、神の御前にへりくだることが当然であることを私たちに教えています。神は、必要ならば、傲慢な心を御力によって打ち砕くことができなさるお方です。しかし、神はそれを望みなさいません。神は、むしろ、人が進んで神の御前にへりくだることを願っておられます。

   神の御前にへりくだるべき理由は、神が嘉しとされるときに、神が私たちを高めてくださるからだ、と説明されています。神はタイミングを誤たれるお方ではありません。神が嘉納してくださるときは、また、私たちにとって「ちょうど良い時」なのです。

高知県・越知町の大樽の滝

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