. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第125講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」             ペテロの手紙5:10 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   ここには、クリスチャンが享受することのできる、過去・現在・未来にわたる神の恵みが記されています。まず、現在に関してですが、「あらゆる恵みに満ちた神」との句が、それを示唆しています。人生は複雑で、さまざまな事態が巻き起こってきますが、神は、そのすべてに対して、恵みを備えていてくださいます。悲しみ、痛み、しんどさ、辛さ、孤独、苦悩、、、、数え上げたらきりがないかもしれません。しかし、そのすべてに対して、神は恵みをもって応えてくださいます。それで「あらゆる恵み満ちた神」なのです。神の恵みは「あらゆる」事態に対して十分なものです。

   過去に関しては、「あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神」との句に示唆されています。クリスチャンは、永遠の栄光の全体を今、手にし味わっているわけではありません。しかし、そこに招き入れられていることは確かです。クリスチャンとしての道を歩み続けるなら、私たちは確かに、永遠の栄光に入るのです。私たちが福音への招きに応じた時、和つぃたちは永遠の栄光への入り口の門を既にくぐったのです。福音の招きは、永遠の栄光への招きに他なりませんでした。罪の赦しを初めとする、クリスチャンとしての最初のもろもろの霊的な恵みは、この永遠の栄光の前味わいなのです。

   さて、クリスチャンの将来に関しては、「完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます」がそれを暗示しています。「完全にし、」がこれらの恵みの冒頭に記されていることは、聖書的な意味での完全が、最終的なものではなく、初発的なもの、スタート・ラインであると理解できます。ここにおける「完全」は、J・ウエスレーがいみじくも説き明かしたように、哲学的な「完全」ではなく、クリスチャンとしての「完全」です。その意味で、あるクリスチャンが「完全な者」にされたとき、そのクリスチャンは、また、同時に「堅く立っている者」、「不動の者」ともされたのです。これは、未来・将来に関わることといっても、それは近い未来であり得ます。

   遠い未来に関する事は「永遠の栄光に、、、」が関わっています。「永遠の栄光」の前味わいのみではなく、その全てを味わい知る時です。しかし、これらの将来に関わることが体験できるのは、「しばらくの苦しみのあとで」であると、ペテロは書いています。クリスチャンとして忍ぶ苦難のトンネルの向こうには、雪国ならぬ永遠の栄光が、神の国の栄光が待ち受けています。

高知県・越知町の大樽の滝

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