. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第127講
■ 今日の「井戸掘り」

   「私の認めている忠実な兄弟シルワノによって、私はここに簡潔に書き送り、勧めをし、これが神の真の恵みであることをあかししました。この恵みの中に、しっかりと立っていなさい。」             ペテロの手紙5:12 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   シルワノは、ペテロの忠実なセクレタリーとして、その手紙を筆記したのでしょう。さて、ペテロはその手紙の内容を、勧告の手紙であると共に証しの書簡であるとしています。ここにペテロが証ししたことは「神の真の恵み」でした。

   この「真の」という表現には、「真の」に対する「偽りの」が示唆されています。すなわち、神の恵みのように思えても、実はそうでないものがある、と言うことです。「神の真の恵み」とは、キリストの十字架に結びついた恵みであり、十字架から流れ下る恵みです。それに対して、キリストの十字架とは無関係な表面的には、恵みに思えてもそうでないことがあります。旧約聖書・詩篇に「そこで、主は彼らにその願うところを与え、また、彼らに病を送ってやせ衰えさせた」と言う句があります。一見、「その願うところ」が与えられること、願望が叶えられることは、恵みによるものと見えます。しかし、その後に続く句は、決してそうではないことを教えています。「また、彼らの病を送ってやせ衰えさせた。」彼らの願望が彼らの希望通りに叶えられたことは、実は、禍いだったのです。

   現代のの若い人たちは、自分の願いどおりにことが運ぶことが幸せなことであると考えて、自分の願望の成就に全力を傾けています。確かに、聖書には「神は、、、あなた方のうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ2:13)と言う聖句もあります。しかし、それは「みこころのままに」であって、彼らの願望が、みこころと合致しているかが問われています。みこころに反した人間的な願望の成就は、恵みではなく、むしろ、禍いとなることが多いのです。願望が実現したと言う点では、如何にも「恵みによって、、、」のように見えますが、その実、みこころに適った願望の成就ではなかったので、それが恵みとはならないで、願望の成就が禍いとなることがあります。

   「神の真の恵み」と「偽りの恵み」、主の恵みのように見えながら、その実、そうではないものとを、見分ける霊的な弁別力を身につけたいものです。

高知県・越知町の大樽の滝

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