. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第25講
■ 今日の「井戸掘り」

   「彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに告げ知らされたのです。、、、」         ペテロの手紙1:12 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   前の節には、預言者たちは「だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べた」と書かれています。「だれを」は、欄外註によると、別訳では「いつ」となるとのことです。パウロは、キリストの誕生に関して、ガラテヤ人への手紙に「しかし、定めの時が来たので、、、」と書きました。預言者たちは、キリストが来られる「定めの時が」、自分たちの時代ではなく、遠い新約の時代であることを啓示で知りました。預言者たちの活動は、書き物を後代に残さなかった初期の預言者を含めると、紀元前1000年くらいから400年に至るまで多くの期間にわたっています。モーセも預言者とありますので、モーセを含めると、さらに500年もの歳月を遡ります。

   これらのことは、御使いたちもはっきり見たいと願っていることだと、ペテロは書いています。しかし、ペテロの手紙の読者の時代には、「だれを、また、どのような時をさして」なのかは、彼らに「福音を語った人々を通して」告げ知らされたと、ペテロは書いています。この「あなたがたに福音を語った人々」とは、ペテロを初めとする使徒たち、最初の弟子たち、に他ならないでしょう。すなわち「みことばの役者」として立てられた人々を通して、、、なのです。

   「告げ知らされた」からには、それを聞いた人々の責任は重いといわなければなりません。告げ知らされず、聞いていなければ、「知らなかった」で済ませられますでしょう。しかし「告げ知らされ」、耳にしたからには、聞いたことに対してどのような態度を取るか、そ責任は聞いた側にあります。

   このようにして、ペテロの筆は次の節へと進められていきます。「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現れのときにあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」では、次回に。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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