■ 今日の「井戸掘り」
「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」 ペテロの手紙1:23
■ 井戸を掘りましょう:
クリスチャン生涯は、それ以前の生涯とは、ある意味で不連続です。「新しく生まれる」と言うことがなければ、信仰生涯は始まりません。かって、主イエスはユダヤ人の指導者であるニコデモに対して「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と語られました(ヨハネ3:3)。クリスチャン生涯は、修養の結果として始まるものでも、神秘的な悟りの世界に入ってゆくことにあるのでもありません。「新しく生まれる」ことにおいてのみ可能なのです。
多くの人々は、この事実を理解できないままで、信仰生涯を追求します。その果てに「自分にはできない」ことを知るに至って絶望するのです。「新しく生まれなければ、神の国を見ることはでき」ない、クリスチャン生涯の出発点は、正に、このことを痛いまでに自覚することにあります。しかし、そのことを痛感するとき、その絶望感の中から、神による信仰と希望とが湧いてくるのです。
「神のことばにはいのちがあります。」それは「生きていいて、力があり」、それに心を向ける者のうちに働いて、その心中に新しいいのちをもたらすのです。植物の「朽ちる種」でさえ、それが地中に植えられるとき、やがて地上に芽を出すように、神のことばは「朽ちない種」として、新しいいのちを人の心と生涯に展開します。「人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」のです(マタイ4:3)。パンによって支えられるいのちは、私たちの生物的ないのちです。しかし、私たちの霊的ないのちは、神のことばによって、生み出され、また、支えられています。
神のことばは「いつまでも変わることのない」ことばと記されています。人のことばは時代によって変化します。日本でも以前は、姦淫罪というものがありましが、現在では、そのような不道徳な行為があっても、法律的には罰せられません。人のことば・法律は、時代に即応して変化してゆきます。ですから、ある人は、すべては相対的であって、この世に絶対と言えるものはない、と主張します。しかし、神のことばは「変わることがない」のです。時代が変わり、人々の思想も変わっても、神のことばは「変わることなく」、絶対的な権威を帯びて、人々の頭脳にではなく、良心に迫ってきます。
■ キリスト、ペテロの足を洗う