. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第36講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」              ペテロの手紙1:23 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   クリスチャン生涯は、それ以前の生涯とは、ある意味で不連続です。「新しく生まれる」と言うことがなければ、信仰生涯は始まりません。かって、主イエスはユダヤ人の指導者であるニコデモに対して「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と語られました(ヨハネ3:3)。クリスチャン生涯は、修養の結果として始まるものでも、神秘的な悟りの世界に入ってゆくことにあるのでもありません。「新しく生まれる」ことにおいてのみ可能なのです。

   多くの人々は、この事実を理解できないままで、信仰生涯を追求します。その果てに「自分にはできない」ことを知るに至って絶望するのです。「新しく生まれなければ、神の国を見ることはでき」ない、クリスチャン生涯の出発点は、正に、このことを痛いまでに自覚することにあります。しかし、そのことを痛感するとき、その絶望感の中から、神による信仰と希望とが湧いてくるのです。

   「神のことばにはいのちがあります。」それは「生きていいて、力があり」、それに心を向ける者のうちに働いて、その心中に新しいいのちをもたらすのです。植物の「朽ちる種」でさえ、それが地中に植えられるとき、やがて地上に芽を出すように、神のことばは「朽ちない種」として、新しいいのちを人の心と生涯に展開します。「人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」のです(マタイ4:3)。パンによって支えられるいのちは、私たちの生物的ないのちです。しかし、私たちの霊的ないのちは、神のことばによって、生み出され、また、支えられています。

   神のことばは「いつまでも変わることのない」ことばと記されています。人のことばは時代によって変化します。日本でも以前は、姦淫罪というものがありましが、現在では、そのような不道徳な行為があっても、法律的には罰せられません。人のことば・法律は、時代に即応して変化してゆきます。ですから、ある人は、すべては相対的であって、この世に絶対と言えるものはない、と主張します。しかし、神のことばは「変わることがない」のです。時代が変わり、人々の思想も変わっても、神のことばは「変わることなく」、絶対的な権威を帯びて、人々の頭脳にではなく、良心に迫ってきます。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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