. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第37講
■ 今日の「井戸掘り」

   「『人はみな草のようで、その栄えは、みに草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」              ペテロの手紙1:24、25 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「神のことば」、「主のことば」、「福音のことば」と三つの表現が見受けられますが、みな同義語です。それは「とこしえに変わることがありません。」父なる神から主へ、主から福音の役者へ、福音の役者から私たちへと、「神のことば」は伝えられてきました。「福音のことば」の集大成が、現在「聖書」として、私たちの手にあります。歴代のクリスチャンたちは、この神のことば・聖書を手にして、如何にそれを変えずに後代に伝えてゆくかに腐心しました。神のことばは、それ自体「とこしえに変わることが」ないことばであるとともに、多くの真実な人々の努力によって、変わらないように、変えられないように、保持されてきました。聖書の歴史は、学ぶと大変益となる学びの分野です。

   「神のことば」に比して、人は、そのいのちは、何と儚いものでしょうか。人は草花に例えられています。朝には美しく咲きほこっていますが、夕べには、もう萎み、やがて枯れてしまいます。モーセは、詩篇90篇で、人の一生の短さを、「夜回りのひと時」(4節)、「滔々と流れ下る水の流れ」(5節)、「移ろう草花」(6節)、「一息」(9節)、「飛び去ってゆく鳥」(10節)に例えて詠っています。そして「千年も、きのうのように過ぎさる」と言っています。

   「百年(でしたでしょうか)経たないうちに、誰も聖書を顧みなくなる、聖書など読まなくなる」と豪語した19世紀の無神論の哲学者は、既に世にありません。しかし、聖書は、読まれなくなるどころか、今なお人々の愛され、世界中の隠れたベスト・セラーと言われています。聖書のことばは、数々の文学で引用され、今では、「目から鱗」といった聖書の表現が、日常生活のことばにさえなっています。「主のことばは、とこしえに変わることがない」のです。

   「あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれ」、すなわち「主のことば」です、と書かれていますが、主のことばを語り告げる説教とは、なんと素晴らしいものでしょうか。その務めに召されると言うことは、何と光栄なことでしょうか。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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