. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第39講
■ 今日の「井戸掘り」

   「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」              ペテロの手紙2:2 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   生まれた子どもは、乳を吸わなかったら、折角この世に生まれたのに、やがて栄養失調で死んでしまいます。同様に、神の子として生まれた信仰者も、みことばの乳で養われなかったら、折角受けた霊的ないのちを失ってしまいます。みことばの乳によって養われないかぎり霊の世界に生き続けることは不可能です。

   ここでは、みことばが「純粋な、みことばの乳」と言われています。このみことばの乳を飲むのは、個人的な聖書通読によって、でもありますが、説教を聴くことにもよります。後者の場合、与えられた乳が「純粋」でないという情況が起こりうるのです。すなわち、教会の講壇から「純粋な、みことば」が語られないで、その説教者の主観的な意見、また、間違った解釈に基づく命令・示唆、などが語られる場合です。前者の個人的に聖書を読む場合でも、聖書解釈と言う作業を通して、みことばの乳の「純粋」性が失われることがありますでしょう。

   純粋な、みことばの乳、または、霊的な乳であるみことば、に日々接することが必要です。先回紹介しました、ジャマイカでであった宣教師の、聖書通読に関する助言を想い起こしてください。批判的にではく「敬虔な思いで(R)」、義務感からではなく「熱心に(E)」、ただ漫然とではなく「注意深く(A)」、そして、時折思い出したようにではなく「日々に(D)」です。

   私は聖書の主題は、キリストですので、そのことに因んで、「キ」、勤勉に、「り」、理解を伴って、「ス」、素直な心で、「ト」、止まることなく、の4つに聖書を読む姿勢を纏めました。とにかく、霊的な乳をすい続けることが大切です。理解を伴ってと書きましたが、理解できない難解な箇所に行き当たっても、諦めないことです。聖霊がそのような箇所を解き明かしてくださることを期待して読み続けましょう。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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