. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第40講
■ 今日の「井戸掘り」

   「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」              ペテロの手紙2:2A 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   「それによって成長し、救いを得るためです。」その箇所で心に留めたように、1章9節には「たましいの救いを得ている」と書かれています。これは「初めの救い」と表現できるでしょう。成長の末に得る救いは「終わりの救い」と言えます。それは、既に言及したように、1章5節の「終わりのときに現される救い」と言われている救いと同じです。

   霊的な乳であるみことばに養われる時、神の子たちは、何において、また、どのように、成長するのでしょうか。勿論、成長は、ひとりの人間に関わるすべてのこと、すなわち、霊的、道徳的、知的、、、とすべての分野においてでなければなりません。一つの分野における成長のみでは、異常な成長になってしまいますでしょう。成長は、包括的であって、初めて健全な成長と言えるのです。

   しかし、神の子たちにとっては、特に霊的・道徳的な成長が期待されています。霊的と言うのは、キリストを知る知識と恵みにおける成長であり、道徳的と言うのは、その結果としての、日常生活の中での道徳問題における成長した対応が関わっているからです。

   一節にあるような「悪意」、「ごまかし」、「偽善とねたみ」、「悪口」をつくという問題などが関わっています。こうした課題が、クリスチャン生涯を悩ますようであれば、そのクリスチャンは、まだ、赤子のクリスチャンと考えられるでしょう。成人したクリスチャンは、こうした問題・課題を乗り越えて、心にキリストの愛を宿している人々のことです。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


Copyright2004 PZH
Allrights reserved. 許可なく転載を禁じます。

■ トップ・ページにもどる