. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第41講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」                                       ペテロの手紙2:3 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   第2節に「救いを得るためです」と書きました。これは「初めの救い」ではなく、「終わりの救い」への言及です。しかし、記者のペテロは、読者が誤解して、まだ、キリストの救いに一切与っていないかのような錯覚に陥ることを警戒して、「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」と書きます。ことばを変えて言えば、「終わりの救い」には与ってはいないけれども、「初めの救い」を体験している(1:5)ので、主がいつくしみ深い方であることを既に知っているでしょう、と言っているのです。

   救いの業は、主の慈しみ(2:3)、主の恵み(1:10)によるもので、信じた者たちの努力の結果ではありません。それは、恵みによるので、人間側から見るならば「信仰による」のです(エペソ2:8)。それで「信仰の結果でる、たましいの救い」と、ペテロは1章に書きました。

   「あなたがたすでに、味わっている」と書いていますが、救いは、知識の問題ではありません。体験の問題なのです。お料理を味あうように、個人的な体験として救いに与るのです。味わい知るのです。ですから、その体験から、キリストへの愛が生まれてきます。また、キリストともに人生を生きることへの喜びが湧いてきます(1:5)。

   1章の終わりから2章の冒頭にかけて、ペテロは救いをさまざまなイメージで語っています。「たましいを清め、、、」(1:22)。これは沐浴のイメージです。水浴びすることによって、肉体の汚れを洗い清めるように、キリストの血潮を浴びることによって、罪の汚れからたましいを清めるのです。「新しく生まれたのは、、、朽ちない種からであり」(1:23)。園芸のイメージです。庭の土に花の種が植えられ、やがてその種が芽をふき、花を咲かせるイメージです。「生まれたばかりの乳飲み子のように、、、」(2:2)。次には、赤ちゃんの誕生と育児のイメージです。さらに、ペテロがさまざまなイメージを駆使して初めの救いの体験がどのようなものであったかを読者に伝えようとしている様子が伺われます。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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