. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第42講
■ 今日の「井戸掘り」

   「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」                          ペテロの手紙2:4 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   主が地上におられれば、「主のもとに」行くとは、主との距離を縮めることが意味されます。あの山上の説教の場面では、「イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た」とあります(マタイ5:1)。しかし、主は天に、御父のみもとに登られ、今はこの地上にはおられません。

   その主のみもとに近づくとは、どのようなことでしょうか。それは二者の間の距離に拘わることではなく、内的な意識の問題です。他のものに目を留めないで、そこから振り向いて、主に思いを向けることです。主を親しい方として認識することです。

   「主は、人には捨てられたが」とありますが、見捨てることは、主から離れることではないでしょうか。「主は、、、、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石」です。「主のもとに来る」とは、私たちの心で、主をそのような方として理解することです。主は「選ばれた」方、「尊い」方、そして、「生ける石」である方である、と頷いて生きることです。

   主は、神によって、救いの手段として「選ばれた」メシヤです。神によって、選ばれた方として、当然「尊い」御方です。ペテロの手紙の読者は、そして、私たちは、この尊いお方のところに来るように招かれているのです。

   この最後の「生ける石」という表現ですが、6節を見るとその意味が明瞭になります。前の節の解説のとき書き記したように、ペテロはさまざまなイメージを駆使して、クリスチャンになったということがどのようなことなのかを説明しようとしています。ここでは、建築のイメージが用いられているのです。

   

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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