. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第43講
■ 今日の「井戸掘り」

   「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。」                         ペテロの手紙2:5 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   4節から8節までは、建築のイメージで書き進められています。主は「生ける石」ですが、「あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい」とあります。日本の家は、ほとんどが木造ですが、パレスチナ地方では家は石造りでした。岩をそのまま、或いは、大きなレンガのように切って、積み上げて造りました。

   建物のイメージは、直ぐ、神殿のイメージに移ってゆきます。「そして、聖なる祭司として、、、、いけにえをささげなさい。」と続くのです。ペテロたち、弟子の目には、最も豪華な、素晴らしい建物は、大理石を積み上げたエルサレムの神殿でした。そこで祭司たちは、朝ごとに夕ごとに、「いけにえをささげ」ていたのです。クリスチャンが捧げるいけにえは、「神に喜ばれる霊のいけにえ」です。エルサレムの神殿での宗教行事が如何に形式に陥っていたかを暗示しています。神は、それらを喜ばれませんでした(イザヤ1:13〜20)。イザヤの時代の人々は、ささげ物を携えて、神殿の礼拝にきました。しかし、律法の規定に従うことにおいては、厳密であっても、他方で、日常生活の中で、正義が踏みにじられていたのです。宗教・信仰が、日常生活から乖離して、繋がっていませんでした。主は、そのようなささげ物を喜ばれないのです。

   「神の喜ばれる霊のいけにえ」とは、どのようないけにえでしょうか。パウロは、ローマ人への手紙の中で「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と書いています。「生きた石」、「生きた供え物」、キリスト教信仰は、死に関わる葬式宗教なのではなく、「生」に関わる信仰です。

   宗教改革の「万人祭司」という理念は、このような聖句から取られています。すべての信仰者は、自らが、「聖なる祭司」なのですから、他の祭司・司祭の仲介なしに、直接に神に近づき、自らをいけにえ・供え物としてささげることができるのです。「イエス・キリストを通して」で十分なのです。キリスト以外に、他の仲立ちの必要はありません。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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