. . 聖書・「神のみことば」は、真理の尽きない泉です。深く掘れば掘るほど、豊かな甘い水を湧き出します。日本古来の井戸掘りの技術に「上総掘り」という方法があります。重たい鉄の管を何回も何回も地中に落とすことによって、徐々に井戸を掘り進んでゆく方法のようです。聖書を掘り下げるにも、上総掘りのように何回も何回も、同じ箇所を読むことが大切なのです。このページは、フィリップの「井戸掘り日記」」と名付けました。
「ペテロの手紙」 に学ぶ : 第44講
■ 今日の「井戸掘り」

   「なぜなら、聖書にこうあるからです。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない』。」                         ペテロの手紙2:6 

  ■ 井戸を掘りましょう:

   イザヤ28:16節からの引用です。イザヤ書では、最後の句が「これを信じる者は、あわてることがない」となっています。そして、欄外註に「これを」は補足であると記されています。また、説明として石にかかる形容詞も、少々異なっています。ペテロの手紙では「選ばれた」、「尊い」礎石ですが、イザヤ書では「試みを経た」、「堅く据えられた礎の」、「尊いかしら」石となっています。

   そのような違いはさて置いて、このような引用を通して、旧約聖書が、新約のクリスチャンたちにとって権威の所在であったことが伺われます。聖書にこう書かれているからと聖書を引用して、自分が書いていることの確かさを立証・保証しているのです。「なぜなら、聖書にこうあるからです」とは、重たいことばです。

   しかも、ペテロは、その第2の手紙に、パウロの手紙に言及して「聖書の他の箇所のばあいもそうするのですが、それらの手紙を曲解し、、、」と「聖書の他の箇所」、すなわち、旧約聖書とパウロの手紙とを同列においています。そのことは、ペテロの時代には明らかにパウロ書簡が、聖書として位置づけられていたことを、示しています。新約聖書の形成が暗示されているのです。

   また、旧約聖書に語られた「尊い礎石」を、主イエスと結び付けていることは、大変興味深いことです。彼らによっては、旧約聖書は、律法の書ではなく、予言によって、また、雛形を通して、イエス・キリストを指さす書だったのです。

   1章にも(24節)、また、3章にも(10〜12節)、旧約聖書からの引用があります。クリスチャンたち、すなわち、教会は、最初から聖書の民でした。

■ キリスト、ペテロの足を洗う

高知県・越知町の大樽の滝   ☆印をクリックしてください


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